新年おめでとうございます

校長 児玉 純

 2024年、令和6年が始まりました。例年になく、暖かい穏やかな元日かと思っていたところ、夕方に大きなニュースが入ってきてテレビにくぎ付けになりました。今も多くの方が悲しみと不安の中におられると思います。石川県をはじめ北陸地方で地震や津波の被害にあわれた皆様、関係者の皆様に心からお見舞い申し上げます。本校及び女学院としても、被災された皆様の上に守りと慰めがあるように祈りを合わせるとともに、どのような形で支援できるのか知恵を出し合っていきたいと思います。

 本校では、毎年春と秋に「キリスト教週間」というものがあります。小学校、中学校、高校それぞれ特別な講師をお呼びして礼拝を守る特別な一週間です。昨年11月のキリスト教週間は、チャプレンの提案で小学校と中高の教員が入れ替わってお話をするという企画でした。小学校では、中学校・高校の浅香美音子校長先生ほか2名の先生がお話ししてくださいました。小学校からも私と2名の教員が中学校、高校それぞれの礼拝でお話をさせていただきました。私は、着任3年目にして初めて聖マーガレット礼拝堂や講堂でお話しすることになり、少し緊張しました。また、それぞれ600人の中学生、高校生の前で話す事になり、どきどきもしました。が、去年、一昨年と卒業していった子ども達の前でお話しする機会が与えられたことが少し嬉しかったです。私は中学校では「許す」ということについて、高校では「出会い」ということについて話をしました。じっくり一人ひとりの顔を見ながら話す余裕はなかったのですが、どちらも一生懸命話を聞いてくれたのではないかと思います。
 立教女学院は、小・中・高の三校体制です。小学校の子ども達にとっては入学したときにお世話になったパートナーのお姉さんや、一緒に活動した上級生が同じ敷地の中にいる恵まれた環境です。しかし、私が着任した2021年当時、コロナの影響もあったため中高との交流が活発に行われていたという状況ではありませんでした。それが今年度はセントラルコートで中学生と話をする小学生の姿が日常的に見られるようになり、小学校と中・高の教職員も様々なところで顔を合わせる機会が増えました。クリスマス礼拝や祝会もコロナ以前のように行われ、大人同士の交流も復活できたことで、女学院の一体感が一段と増してきたように感じます。
 私は6年生向けの進学説明会など、浅香校長先生や高嶺教頭先生のお話を聞いて、立教女学院中学校・高等学校の教育の素晴らしさにとても感動しています。小学校も中高もお互いがお互いのことをもっとよく知る事で12年間を見通した教育がさらに充実するのではないかと思います。
 子ども達も保護者も教職員も、女学院の12年間とその先に期待を大きく膨らませることができる1年になるようにと心から祈ります。

祝われなかったクリスマス   ~チャプレンからのメッセージ~

 毎年、クリスマスの街ベツレヘムには、世界中から多くの人々が訪れ、クリスマスを祝う礼拝が盛大に行われます。しかし昨年はベツレヘムのすべての教会が、クリスマスを祝う盛大な礼拝をすべて中止すると決定しました。こうしてクリスマスの街は、深い闇の中に閉ざされたまま、クリスマスの時を過ごすことになりました。
 ベツレヘムにある福音ルーテル・クリスマス教会では、破壊し尽くされたガザの様子を象徴する瓦礫の山の中に、イエス様降誕の場面を表すナティヴィティー・シーンが置かれました。クーフィーヤと呼ばれるパレスティナの伝統的スカーフに包まれた幼な子イエスが、瓦礫の間に寝かされています。見えるところにマリアとヨセフの姿はなく、もしかすると、瓦礫の下に埋もれているのかもしれません。イエス様を探しにやって来た羊飼いと東方の占星術の博士たちは、瓦礫に阻まれて、イエス様がいるところまで近づくことができません。
 このナティヴィティー・シーンの写真は、ベツレヘムですべてのクリスマス礼拝が中止になったというニュースと共に、世界中を駆け巡りました。すると、福音ルーテル・クリスマス教会のムンデール・イスハーク牧師は、実際にガザで殺害されている子どもたちよりも、このナティヴィティー・シーンが注目されていることに困惑しているとコメントを発表しました。
 降誕劇でお馴染みのマリアとヨセフ、そして生まれたばかりのイエス様のもとを訪れた羊飼いたちは、「ザカリアの賛歌」に現れる「暗闇と死の陰にいる人」であり、「マリアの賛歌」の「身分の低い人」、「飢えた人」の象徴です。
そして神様は、世界を救う働きを、そのような人たちの中で始められました。神様は、貧しい夫婦のもとに生まれた、誰の子かもわからない、自分で自分の身を守ることもできない幼な子を通して、暗闇と死の陰にいる人を照らし、身分の低い人を引き上げ、飢えた人を良いもので満たすことにしたのです。
 立教女学院で学ぶ子どもたちが、今も神様が続けておられる救いの働きの協力者として成長していくことを願い、祈りつつ、「明けましておめでとうございます」。