夏の宿題   

夏の宿題          教頭 吉田 太郎  

 日本人選手たちの大活躍によって、過去最高のメダル獲得数となった『東京オリンピック・パラリンピック』。世界的なパンデミック、コロナ禍での開催となったことは残念でなりません。
 「8月の東京はスポーツに適した温暖な気候」「福島の原発はアンダーコントロール」「復興五輪」「アスリートファースト」などの謳い文句で招致に成功したオリンピック。大会エンブレムの盗作疑惑や国立競技場建設費用オーバーによるドタバタ劇などを乗り越え、関係者の努力によってなんとか開催まで漕ぎつけた東京大会。残念ながら、1年延期しても「コロナに打ち勝った」ことを証明することはできませんでした。本大会を振り返りますと、直前には組織委員長の森喜朗元首相の女性蔑視発言、開会式を巡っては過去の問題発言が炎上し、関係者が相次いで辞任や解任に追い込まれるなど混乱が続きました。過去のイジメによる深刻な人権侵害やホロコーストといった歴史認識が改めて問題視されるさなか、「ホームレスは生きている価値がない。猫の命の方が大事」と自身のYouTubeチャンネルで得意げに語ったタレントが糾弾されました。彼の差別発言の根底には「優生思想」があるのではと指摘されています。かつてナチスドイツは「優生思想」を喧伝し、その正当性を証明しようと『ベルリン・オリンピック』(1936年)を利用しました。ゲルマン民族こそが最も優れた民族であり、ユダヤ人やアフリカ系の人々は劣っているという思想を持つヒットラーは陸上競技で黒人選手たちが大活躍する姿に激怒して競技場から帰ってしまったという逸話が残っています。

 今回のオリンピックは日本社会のガラパゴス化、国際感覚の欠如を顕在化させました。なぜこのような単純で深刻な過ちを繰り返してしまうのか。その責任の一端は「教育」にあったのではないかと感じています。一昔前、一般的に私たちが学校教育だと考えている作業のほとんどは知識や技術を伝達することに偏りがちでした。これからは、特に社会科などの授業においては、事実をただ単語や年号として教えるだけではなく、歴史のなかにある痛みや苦しみ、すなわち教科書の余白の部分、人間のドラマ、悲哀や感情といったものにフォーカスする余裕が必要になっていくと考えます。真の教育的営みとは、技術伝達、暗記法習得といった基礎学力に加えて、共感力を育むことにあります。これからの学校の役割として、あらゆる方法、可能性を用いて、いかに他者に対して共感する能力を育むかということを意識し続けたいと思います。「知性」の欠如に対抗するためには、採点できない教育こそがより一層、重要になってくるでしょう。共感を土台にした学びこそが国際的に通用する「知性」の出発点なのではないか。今回の騒動からの私自身の気づきです。

 とはいえ、もちろんオリンピック・パラリンピックでは勝利を目指すアスリートたちのたゆまぬ努力に感動しました。高校野球の球児たちや運動会で懸命に走る子どもたちにも、プロ・アマ問わず、誰かが一生懸命に努力する姿には感動させられます。気がつけば、順位やメダルの数に一喜一憂する私たちですが、同時に、立ち止まり考えることを続けたいと思います。
 「能力が優れている」から価値がある。ということと、同じように「あなたがあなたであること」に価値がある。という二項対立(binary opposition)をどのように受け止め、教育に具現化していくことができるか。私たちに課せられた、提出期限には間に合いそうもない夏の宿題となりました。