「祈りの丘」で

いま、碧き海に祈る 愛するあなた 安らかなれと     

 教頭 吉田 太郎 

 東日本大震災から10年という節目の日を迎えようとしています。1000年に一度と呼ばれる大震災。そして大津波。どれだけの人の命を呑込み、どれだけの人の故郷や仕事、人生を破壊したことでしょう。
 2011年の震災直後、東北自動車道の復旧を待って、キリスト教センター復興支援プロジェクトの委員として、中村邦介司祭(当時院長)とともに剥き出しの瓦礫が積み上げられたままの南三陸町を訪れました。重機がひっきりなしに瓦礫と呼ばれる住居や車の残骸が累々と積み上げられていく光景に言葉を失いました。
 私たちが仙台から南三陸町へ向かった目的は、大津波によって活動の場を失った「おもちゃの図書館いそひよ」の再建というミッションでした。志津川高校のちょうど真下、高台の中腹にある「慈恵園」という老人ホームが待ち合わせ場所に指定されました。駐車場から、瓦礫の向こうに美しい志津川湾が見えました。しばらくすると、くたびれたキャップをかぶった中年の男性が現れ、挨拶を交わします。津波に押しつぶされ、ガラスが散乱する老人ホーム跡地の暗い廊下を歩きながら、彼は朴訥とした東北弁で震災当日の様子を語り始めました。「さっきの駐車場から、あの日も同じように、黒い海と流されていく町を眺めて立っていた。ここまではこないだろう。そう思っていたら、どんどん波が押し寄せてきて、ついには真っ黒な水に呑み込まれ、そこの雨樋に必死でつかまってなんとか命だけは助かった。」そう言って指差す先には壊れた雨樋の一部が壁に残ったままでした。これがその後、10年間にわたって南三陸町と私たちがつながり続けるきっかけとなった鈴木清美さんとの最初の出会いでした。大津波によって知的障害児とそのご家族の交流の拠点としての「おもちゃの図書館」が流出してしまい、活動できずにいることを伺い、立教女学院としての支援が始まりました。

 1923年の関東大震災後、築地の校舎を失った立教女学院は久我山での学校再建を待つ間、日本で最初の知的障害者のための学校である滝乃川学園が所有していた校舎、完成間もない女子寮をお借りして教育を続けることができた。という歴史があります。東日本大震災への支援として障害をもった子どもたちやそのご家族のための施設を再建するというプロジェクトは、藤の会のみなさんのご協力、天使園から小中高、短期大学までの全学的な取り組みとして続けられていきました。そして紆余曲折、困難、苦難の末にようやく完成した建物は『くつろぐはうす・マーガレット』と名付けられ、「おもちゃの図書館」活動のため、地元の皆さんのくつろぎの場としても愛される施設となっています。過去への感謝と、震災復興のための多くの人たちの善意が形となりました。

 冒頭の句は宮城県南三陸町の震災復興記念公園「祈りの丘」にある石碑に刻まれている言葉です。何気なく眺めていたNHKのニュースで、町民からの公募で鈴木清美さんの言葉が選ばれたものだということを知りました。9月に実施した6年生向けのオンライン・スタディツアーでは鈴木清美さんご本人がこの丘に立ち、子どもたちに語り掛けてくださいました。
 今はコロナ禍にあり、東京に暮らす私たちは現地へなかなか赴くことができなくなりましたが、遠く離れた南三陸の碧い海に思いを馳せながら、愛する人たちのために「祈る」時間を大切にしたいと思います。そして2021年度には、「祈りの丘」で子どもたちと一緒に祈りを捧げられますようにと願っています。

ドッジボール大会 5年生の部